グッドナイト&グッドラック

俳優のジョージ・クルーニーが監督した『グッドナイト&グッドラック』を観ました。いわゆる「赤狩り(共産党員やその同調者と思われる者に対する弾圧)」が行われた1950年代のアメリカを舞台に、テレビを通じて“マッカーシー”批判を行ったエド・マローの生き様を描いています。こういう骨太の作品を観ると、もっと作者も頑張らねばいかんなーと思うのでございます

特定の思想に対する迫害や弾圧は、いつの時代でも行われるものかと。

学校や職場でのいじめだって、そうした要素が無いわけではない。

ただ、それが行き過ぎたものになると、正さなければいけないし、自ずと抵抗する力が生まれる。

圧倒的な力を持つ政治家が、極端な思想弾圧を行えば、「それはちょっと違うんじゃないか」と言う人が出てくると。

住基ネットが作られる過程で、国家によるプライバシー侵害を危惧する声がありました。中には、事実誤認やヒステリックとも思える主張もありましたが、「それはおかしいんじゃないか」と言えること自体は、とっても健全で必要なことです。

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最近思うのが、人や組織をコントロールすることは、非常に難しく、現実的には「無理」と考えた方が良いのではないか。ということ。

例えば、本来の議員内閣制で政府を動かす(議会・政治家の主導を強める)ために、官僚をコントロールしようという考えがあります。

官僚政治の問題点は多少なりとも認識しているつもりであるが、作者には、どうもこの「コントロール」という言葉が、しっくり来ない。

大人が子供や若者をコントロールできない状況を見ると、そもそも「コントロールしよう」という考え方自体に無理があるような。

どんなに優秀な政治家であっても、官僚をコントロールすることはできない。と仮定した場合、ではどういう方法で官僚政治を変えていくことができるのか。

思うに、改革はあくまでも自発的に行われるものである。

外部からの刺激が「きっかけ」となることはあっても、内部に「改革して良くなりたい」という意思(人)が生まれていない限り、本当の改革は生まれないし、長続きしない。

作者が関与する電子政府は、一つの「きっかけ」としては大きな可能性を秘めている。

けれでも、その「きっかけ」から何かを変え、何かを生み出していくのは、公務に携わる公務員であり、行政サービスの利用者である国民であり、システムを開発するベンダーであり、彼らの中にある「改革して良くなりたい」という気持ちである。

本質的な問題から目を反らすための「精神論」は語りたくないが、人や組織を動かすには、合理性だけでなく、遠回りとも思える非合理性(結果として合理的な方向へ導く)についても考慮しなければいけない。